観龍寺
鶴形山の上にある幕末の動乱の舞台になった寺
観龍寺(かんりゅうじ)は鶴形山の南西に位置する真言宗御室派の寺です。山号は宝寿山(ほうじゅさん)。
平安時代の寛和元年(985年)に、現在の倉敷市西岡に12の小さな寺のひとつ・北斗山 宝積院として開かれました。戦国時代になると、戦火を逃れて現在の観龍寺駐車場の場所に移されます。そして現在の観龍寺の墓地がある場所を経て、江戸時代初頭に現在地へ移り、観龍寺と名乗るようになりました。
江戸時代に2度の火災にあいましたが、再建された本堂や大師堂(たいしどう)などが現在も残っています。また明治時代になるまで、観龍寺は神仏習合だった妙見宮(現 阿智神社)の別当寺でした。
江戸時代には、頼山陽(らいさんよう)や菅茶山(かんちゃざん)などの文化人が観龍寺を訪れた記録があります。
幕末の動乱のときには、倉敷代官所(現 倉敷アイビースクエア)を襲撃した立石孫一郎が率いた長州第二奇兵隊離脱兵らが観龍寺に滞在しました。そのときに山門に槍の突き傷ができ、傷跡が現在も残っています。
観龍寺の境内は小高いところにあるため、倉敷の町並みが一望できるスポットとして人気です。境内の東側には「鶴形山の鐘楼」があり、中には「時の鐘」があります。
ピックアップ
山門の傷跡
石段を上ったところの境内の入口に、山門があります。注目は山門の向かって左側にある潜り門(小門)の鴨居部分です。
鴨居の一部が削れた跡があります。これは幕末に倉敷と浅尾(現 総社市)のあいだでおきた動乱「倉敷浅尾騒動」のときにできたものです。
討幕派の長州第二奇兵隊離脱兵が、倉敷代官所を襲撃しました。その後、兵士らは観龍寺に滞在したのですが、このとき兵士が槍で山門に傷を付けたのです。
妙見堂
妙見堂は、山門をくぐると目の前にあります。明治時代になるまで阿智神社は妙見宮と呼ばれる神仏習合の神社で、観龍寺が管理していました。
しかし明治の神仏分離令で、妙見宮は阿智神社となります。そのとき、観龍寺境内に妙見堂が建てられました。
妙見堂の中には大きな太鼓が奉納されていますが、普段は見られません。
大師堂
大師堂は「大師」の号を与えられた高尚な僧を祀る堂です。江戸時代に2度の火災で焼失しましたが、江戸時代後期の享和年間(1801〜1804年)に再建されたものが現在残っています。
本堂
本堂には、本尊の大日如来が安置されています(中には入れません)。江戸時代の2度の火災で焼失したのですが、現在残っている本堂江戸時代中期尾は寛延2年(1749年)に再建されたものです。
インフォメーション
住所 |
岡山県倉敷市阿知2丁目25-22 |
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アクセス |
JR山陽本線 倉敷駅から徒歩約15分 |
TEL |
086-422-0357 |